津軽半島激動の歴史。ニュージーランド的文化の可能性について。

f:id:losttechnology:20200803204355j:plain

石川さゆりが『津軽海峡・冬景色』を発売したのは1977年。メガヒットでありミリオンセラーである。「上野発の夜行列車下りたときから・・」という歌詞をみると現代人は「これは鉄オタでは?」と不謹慎な感想を抱いてしまうかもしれませんがそれはもちろん曲解である。わざわざ夜行選んで乗車し青森で一時下車して酔狂で船に乗ってかもめみて気持ち良くなってるわけではない。当時東北新幹線はなかった。青函トンネルも。北海道に向かうバイクブームも。つまりこの歌の通りに人間は北へと向かっていたわけだ。そしてこの頃がもしかすると日本の地方のターニングポイントであった。

—————-

津軽半島の先端部に位置する町、今別。こちらの1957年の記録をみると、県の中心の青森市に行くには船を使って往復3日がかりだったというのです。
https://mykoho.jp/article/青森県今別町/広報いまべつ-令和2年7月号/今べつの昔話っこ-no-33/
まともな道路はなかった。陸の孤島である。ここに国鉄津軽線が整備され陸上交通が主となるのは1958年である。
並行して道路事情も改善し自動車の往来も可能となり1965年には三厩港から北海道福島町との間にフェリー航路が開設される。自動車運搬船航路の開設は青森市より早い。当時自動車で北海道へ渡ろうとすると津軽半島を抜け今別(三厩)経由で向かうのが直近なのだ。10年で鉄道も道路もフェリーも揃っちゃったのである。
その後フェリーは中心都市の青森市や国道4号に直結する野辺地へと繋がることになる(当方の1984〜1986年の北海道行もフェリーターミナルは野辺地。青森市経由より交通が楽だった)。1988年には青函トンネルがついに開通。この年前後に北海道と津軽を結ぶ東日本フェリー三厩〜福島航路は終焉してしまう。
津軽半島は公共交通機関から丸ごとスルーされることとなった。こちらに至るまで20年である。
—————-
30年間で鉄道開設されフェリーターミナルができ新幹線トンネル工事基地となり関係者が集まり、そしてフェリーの需要がなくなり工事は終焉しひとも住まいもきれいに消えてしまう。
2020年の今別町の人口は2500人。それら以前の1957年には人口は8500人である(現在は1950年代の3分の1以下であり年齢階層別でみるとそれ以上の差である)。
1984年の吉幾三俺ら東京さ行ぐだ』のヒット時には活気があったということです。その後はひとは消え声すらあがらない。ひとがいるから声はあがるんだ。
※これは実はケースによっては逆となる可能性があるということです。時代が変わって燃料や輸送力が極度に貧弱となりトンネルの利用も制限された場合、北海道への移動は下北半島の大間か津軽半島三厩(竜飛)から行うことになる。小型船舶やヨットなら定番ルートとなるでしょう。つまり日本にニュージーランドみたいなヨット文化があるとしたらここ今別(および三厩)は主要なセンターとなるでしょう。