純文学かつエンターテイメント。いましろたかし『ハード・コア』。絶賛上映中。

デメキング』に次ぐいましろたかし作品の映画です。これは観にいかなくては。

椎名誠がかつて おもしろかなしずむ という作風で多くのエッセイを書いてました。安アパートに暮らし大根おろしだけだけで飯を食う、そんな中に多様性やドラマを見出す、そういう作風です。食通的なコミックではいまでも似たような展開が見出される。それは日本文学の一種のスタンダードとなっている。

それと比べていましろは残酷だ。突き放し客観視してしまう。よそから見たらどうみえるのか、白昼の下にさらしだし、憐憫の情をとっぱらってしまうのである。

悲しく痛く正視に耐えない。散々笑いものにしてしまうのだ。しかしそれこそ人間の真の姿である。仮面をとった素のままの様態なのである。

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「そんなこと言ったって彼ら(いましろ作品の登場人物)は社会の底辺だろ」。では社会の頂点の人物っていったいぜんたいそんなに立派なんですかね?

違わないのだな。実は。一皮剥いてしまえば。

散々プロジェクトをでっち上げながら終端まで行き着くことはない。核燃料サイクル太陽光発電第五世代コンピュータも。年金も保険も奨学金も。ぶち上げるだけぶちかましてその結果はいったいどうなのか。失敗を続けている。詐欺行為にも等しいものともみれる。しかし大きい話だから国として潰せずずるずるいってしまう(※もちろん成功するものもあります。そして失敗するものもあります。その分別を国としてつけられないのが日本の欠陥のひとつである)。ずるずるいけるのがそちら側に位置する人間の特権である。

そしてプロジェクトの末端に位置する人々が彼ら登場人物たちである(プロジェクトと無関係なわけではない。一体である)。そしてプロジェクトがトラブったときに実際に責任をとるのも彼らである。責任者を自称する人々はなぜか責任をとらないのだ。だから彼らは皮肉をこめて活動する。失敗は予感として前兆にある。職への忠実などあろうはずもない。

しかし登場人物たちの自主性が幸運を生むとも限らないのだ。自主性はもしかすると破綻する結果を生み出す。そこにあるのは運命を賭けた個人の社会との最終決戦である。

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映画『ハード・コア』いましろたかし原作。

 しかしまあ。笑いと文学(的感覚)を共存させ高めあわせてしまう いましろたかし の作品は何とまあ魅力的であることか。

20年以上経てから映画化されるんですよ。それだけ心に響く。読んだ人々は永続的に影響を受けてしまうのです。

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