映画『戒厳令下チリ潜入記 / Acta General de Chile』。1987年 YUKO ちゃんを誘って行くつもりだった映画。

戒厳令下チリ潜入記です。ガルシア・マルケスの著した岩波書店版は読んでました。

チリから追放された映画監督がピノチェト政権下に内密に帰国。自身の存在をスタッフにもあかさないまま極秘裏に取材を行う。これはもちろん映像として残されているのですが、当時はみることはかなわなかった。映画版を観るのはこれが初めてです。

話変わって。

1986年時の私は焦っていた。大学を卒業し、大学院に入ってまでしていったい何を学ぶのか。もちろん、研究を行うために研究室に残ったわけなのだが、そればかりとは言えない何かがあった。不完全燃焼に近い思いを抱いていたのだ。仙台まできて、大学で何をしてきたというのか。

そういう感覚は当時としてモラトリアムとかピーターパン・シンドロームとかいろいろ言われていましたが。現代ではおそらく当たり前すぎて特異とはみなされない感覚である。おそらく大卒が増えたからだろう。当時はフリーターというものもなく、高校を出たら就職するのは一般であり、大学というものが猶予期間であるとは理解もされない時代であった。

ヒントを与えてくれたのは九州旅行から戻る帰りのフェリーで同席した男性である。二等室で缶ビールを飲み交わしながら盛り上がったのだ。彼はこの旅行を終えたら青年海外協力隊で他の国に渡るという。

青年海外協力隊! あることは耳にしていた。自分とさほど変わらない年齢である。すっぱり見切りをつけて数年間海外を実地で観察してくるというのだ。

すごいよ。すごい! 素直に尊敬してしまいます。

これで方針は決まってしまいましたね。

早速受験体制に入り、一時選考は難なく突破し、7月には本試験会場の広尾に向かう私なのであった。

そこでまあ仕切るお姉さんがいたわけだ。彼女はいう「試験終わったから東北・北海道の受験者でみんなで飲まない?」。直近の六本木でパーティである。

ここに集まった人々の中に MIYAKYODAI の YUKO ちゃんもいたのである。

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この辺知ってるのって KOHAMA くらいなんだよなー。

NAKAJIMA も知らない。TOMIO も知らない。UCHIDA も知らない。同期はみんな知らない。私だけの秘密の生活なのであった。

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試験には落ちた。ときの運だ。面接時にはもちろん模範解答とは異なる回答をしたのである。

当時の受験者たちとはその後何年間もの付き合いがあった。

場を設定したお姉さんの力、美貌の野蛮人、KENYA ねーちゃんの力であった(この KENYA ねーちゃんは私がこれまで出会った人々の中で最強に美しく格好良く無敵の類の人間であった。鋼の人間なのだ。驚いた。何があってもおそらく死にはしないのである。なのに美しい。美人なのである。バレンタインデーに KENYA からチョコレートがきたのである。

私はねーちゃんの出発前に氷点下の仙台のなかバイクで迎えに行って駅前でステーキを食べたのだ。おごるつもりだったのにおごられてしまった。スパイクタイヤが常用されていた仙台で、粉塵が舞い、街中に泥水がはねかえるなかで、どかジャン羽織って内綿入りのゴム長靴をはいて大崎八幡の工務店の2階にあるねーちゃんの部屋まで迎えに行ったのである。

私と同じくどかジャン(N-3B)を羽織り、スキニーなジーンズでしっかりとXTにまたがるねーちゃんなのである。

ねーちゃんを積んで走る。バイクのリアサスペンションが沈み込む「あれ?ちょっと重かったかな」ゴツン! 即座にヘルメットが叩かれる。「うわーもう、そういう意味で言ったんじゃないんですよ」ゴツンゴツン。連打である。結構な力を入れたかわいいグーパンチなのである。

いやーあの反射神経はいいわー。即時である。リアルタイム処理なのである。

重いわけじゃないんですよ。体重は45kgもなかった。細身の体なのに左腕に男物のごついダイバーズウォッチを仕込んでくるのである。ねーちゃんが野蛮なのでサファイアガラスは傷だらけなのである)。

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あれ? YUKO ちゃんの話だったんだよな。

ま、いいや。YUKO ちゃんも美人だったんだよなー!!