もちろん教育関係は二の次で。教師や教育関係者は残らず馬鹿、これは事実。教師でなく友人どうしで私たちは高めあっていた。友人関係を破壊する試みを現代教育は推進しようとしている←狂人である。気持ち悪い。

ちょっと久しぶりに検索をしました。即時に呆れた。なんだこれ。

救いようがない。もちろんそういうケースばかりじゃないんですが。世の中にある疑問や質問、課題解決、お悩み相談、まあそういうのです、そういうものを検索したり本を読んだり教室通ったりあるいは〇〇相談所等に通えば解決したりすると考えてる連中ばかりだ。

そんな連中がリアルでもネットでも跋扈しているのである。

私は教師、教育関係者一般、テレビを見ている親は残らずBAKAと考えていますが、もしかしたら世の中一般がそうである。何かを聞いたり甘えたりすればJOHOがやってくると思ってる。乞えば答えがくると思ってる。

そんなことはないんですよ。

何でも自分でやるしかない。自分でやらない人には何も来ない時代なのだ。

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マンガ専門学校に通えば将来マンガ家になれるのか? ない(かなりの比率でない)。即答できる。これは一般常識だ。

結婚相談所に通えば将来結婚できるのか? ない(かなりの比率でない)。即答できる。これが一般常識となってないことは異常だ。

ところが安易にだまされる。実は大学でも予備校でも大学院でもそうなのである。

そこで問題となるのが教室の運営(教師側)に課題があるのかあるいは学生生徒児童に課題があるのかあるいはそのすり合わせにあるのかである。

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どれがやっても無理なんだなあ。

芸能人でトップ10人になるために芸能学校に通ったとしても無理でしょう。

元から解決不可能な課題だ。そして日本で Google Apple Facebook クラスを即座に作ろうとしても無理なのである。

言語の国際化はできていない。国際化には膨大な外国人留学生が必要となるが日本語ベースではそれは無理だ。かといって日本語ベースの環境を放逐することはできない。利点もない。英語ベースは既に米国の独壇場である。

単純な模倣は既に不可能な世界だ。そしてそれらのグローバル企業も他者の単純な模倣から発したわけではない。それらは、生き残ってきたのである。

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ここなんだ実は。生き残りを賭けた戦いである。世界の実態はこうである。下手したら死ぬしかないのだ。

学校は下手したら死ぬしかないという世界の実態を隠蔽する存在である。

最も重要な事が教えられていない。教えるとしてもそれでは人々は来ないだろう。つまり必ずだますのだ。人々を学生生徒として募集し組織を維持し収入を得るために必ずだます。必ず責任を(※責任はないのですが、入学者が期待するそういうものがあるとすれば)放棄する。

それでも何故かシステムが維持される。入学者に高い意志や事前に所有する高いスキルや自らの事前環境が整っているからである(なので学校的な存在の運営手法の真実はそれらの整っている人々の事前の選択ということになる。うまく行く人々を選んでいるからうまく行くのであり、指導者側の影響力など微々たるものである)。

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実はこれが本当に重要なんだ。自らの学生生活を振り返ればいい。

豊田譲『江田島教育』は戦前戦中の海軍兵学校を舞台としたものだが、教師の影響は現代の大学とは比較にならないほど大きな世界だが(副読本とかない環境のため)教師の名前や人格に関する記述より同級生や上級生に関する記述であふれている。

現代においてもあらゆるマンガ、小説、私たちの記憶においてもそうである。

友人関係が全てでありいい友人に出会えることが全てである。

日本から海外に留学する人々ではこのことはより大きくなる。記述のほとんどが仲間内の話で占められる。

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ではなんで教師たちはそういうとこまで食い込んで来ようとするのか?

学生生活が楽しかったからである。

だから今でも学生生徒に割込み話に食い込んで来ようとするのだ。あほだ。気持ち悪い。「そっちはそっち、こっちはこっち」と区別できないのだ。

私は区別することが全てであると思ってるんですよ。

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やるべきことをやる。発言する関係を限定する。人間関係を限定する。きちんと部をわきまえる。

Twitter とか Facebook でなんでもだだ流しにするのが良しとされる世界の中でこれは例外的行動だ。RT せよとの動きに反する選択だ。私はそれが正しいあり方と思っている。

集団でつるんで RT 繰り返し極論の形成や見知らぬ人間の持ち上げや袋叩き。あー気持ち悪い気持ち悪い。

ニーチェも言いますね。触れたら手を洗うべきである。私は RT しないで手を洗い忘れてしまいます。