創造の素晴らしさ。

なんというかメーカー製3Dプリンタは出た瞬間買っておいてしまってもよかったかもですね。
ひとによっては生き方を変える。外部世界ではないインナーワールドの可視化である(内部世界にも外部世界にも等しい巨大な面積のあることが3Dプリント機器の存在により明らかとなる)。

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自分が最初に手に入れた3Dプリンタはシンガポール製のキットであり、それ以前にはローランドDG社の3D切削加工機を用いていたのですが、そんな順番踏まなくてもよかった。材料費や手間や製造後(印刷後)の活用考えると結局は遠回りしていたように思える。ABS印刷できる3Dプリンタはゴールなのだ。最初にこれでいい。200*200の面積は必要だ。そしてフィラメントは供給を考えてカートリッジ式ではないリール式にすべきだ。

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完成に至るまでの小加工の連続。材料費と時間を消耗する。
しかしマンパワーは消耗しない。そこまで来れば完成は目に見えてる。
セットすれば出てくる。オリジナルのものが。実はこれこそ精神の疲労を取り除くのに役立つ。
完成後の結果だけが疲労を取り除く。完成するから疲労が取れる。それが最短で目の前で行われることが3Dプリンタの最大の利点である(疲労除去機である。これは導入以前には想像したこともなかった。何より精神に与える影響が大きいのだ)。
通常、都市生活を送っている場合、創造の場は限られる。自分の土地はない。狩場も漁場もない。加工場もない。それは紙の上の作業に集中する。文章書きでありイラスト描きである。それらの流通がネット上で(スマホ上で)行われる現代は都市文明に統一された時代である。文章とイラスト(あるいはそれらを組合せた動画)がクリエイトの対象となっていく。
20年前までは違っていたのです。その時代までは例えば自動車やバイクのカスタムにも意味があり、若者はとりあえずそれらを買ってマフラーやショックユニットやホイール等を改造(交換)していた。
創造の場は実空間上にあった。そこではいきなり言葉を交わす以前にショーアップの必要があった。ショーアップしてあり可視化してあるからそこから話が進む。ショーアップが情報交換を可能にする。
しかしこれは文章ではない。リアルな個体を元にする。
なのでその手の場(車庫)を若者は必要としていた。車庫を求めるために若者は郊外に土地を求めた。
現在のマンション中心の生活はコミュニケーション時にそれらを要求しない社会のスマホ化がもたらしたものだ。
文明の進展の結果とも言えるがもしかすると逆転の可能性もある。
オーディオを良い家で良い環境で聴く。そこにはブルーテゥースヘッドフォン経由ではない間違いない感動がある。
ただ他人の創造を伝えること、イベント、食べログ、大学や会社の要求があるからひとは都市へと向かう。雇用形態の援用かもしれないのだ。だからもしかするとこのムーブメントは一時的であるといった可能性もある。
他の領域では既に拡散が始まっている。コスプレイベントは2011年では東京一極集中だったのだが現在では完全に地方に分散している。
ヘビーにやれば衣装製作や保管にそれだけでひと部屋使う趣味である。ガレージの趣味である。バイクの改造と同じである。
アーカイブコスプレイヤーアーカイブ)は既にその機能を終えていると思いますが、ではその人々がどこへ向かうかということだ。
田舎叩きが続き東京一極集中が続き文章やイラストや動画への依存が続く。おそらくそれによりコンテンツ間の違いはなくなる。急速な陳腐化が起きる。最近の音楽を聴く必要がないように(聴かなくても問題ないように)最近の文学や最近のイラストや最近の動画や最近のマンガを追求する必要がなくなる。
そのとき何が起きるかである。

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自動車では。私は10年もののアメ車のキャンピングカーを乗り回していたのですが。車種を替える必要がないのに驚いた。それに乗っていくだけで私が来たとわかる。私自身のラベルになる。DODGE RAM は私自身だ。それを変えて流行を追うなどできない。
カスタムを繰り返した。創造の結果でもあったのだ。
そのような恒等的カスタムを個人水準で他の領域で可能とするものが3D印刷である。
3D印刷で独自に作ってしまえばそれを持ち込むだけで私が来たとわかるのだ。
自動に組み上がり存在を明示する。これは夢の機械である。
※最初は Thingiverse 等のモデルサイトも利用してみようとも思ってた。現在そういう判断は皆無。個性を発揮し得る場所なのになんで他者と同じものを作るのか。
結果が同じならいい・・というわけではありません。そういう判断はマスプロダクトを利用する時代のものだ。自分で作れるのなら自分でデザインする。そうすることで自己顕示が可能となる。自分で作れるからいいのですよ。
※3Dプリンタが自由に使えるのは個人が一定の面積を保有できる郊外以遠という環境のみです。都心部ではおそらくかなりの制限がある。
現在の中高生は学校で木工等を習わないのでのこぎりの使用法もわからないそうです。
昔はのこぎり・かんな・金づち等のセットを学校で購入させていました。それらのセットは一部では生涯使うものとなった。学校で使うより学校外で使える。即時に役立つのです。
しかしなくなった。おそらく子供たちが(あるいは人々が)リアルにものづくりする環境をなくしてしまったからだ。環境が変化したのである。
狭い世界で大丈夫、ということが、事後的に確認されたのである。
どうなんだろう? 私はこの発想に欠陥があると思っている。というのは地方や郊外での問題もあるが海外への適応も同時に阻害するものであるからだ。
若者は運転免許をとらない。米国でどうするんだと思う。海外出張もそれでは無理ではないのか? TOEIC の点数だけ高くてもそれでは使い物にならないのではないか?