仏教を否定する人々がいる。仕方がない。仏教は「これをすれば成功する」ということを保証する宗教ではない。

例えば悟りを得るにしても。
「これをすれば悟れる」「悟りの完遂コース!!」そういうものはない。仏教システムの存在の根本をなす僧の修行のあり方からみてそうなのだ(悟りの保証はされていない。悟れるのは個人や環境における偶然の資質に任される。しかしその偶然に任される悟りが目標なのである。どんなに修行を繰り返しても、お釈迦様のレベルにまで悟れない可能性の方が高いのだ)。
「これはどういうことなのだろう?」と考えるか。あるいは「これこそ世の中の真実だ」と考えるか。
仏教が提示する混乱した事態の解決法も一定の手順に従うものではない。アドホックである。その部分は自ら考えなくてはならないのだ。
※瞑想をして自ら考える、自らを反省する、そういう手順を踏まず、単純に教えに従う、そういう手順を好むケースが増えています。どうだろう? 私は余計なノイズのカットこそ問題解決に必要なのではないか?と考える質です。
「事態が混乱する」←新たな情報の注入 一神教系(イスラム教徒の街では年中コーランが流れている)
「事態が混乱する」←余計な情報の削除 仏教系(基本的に静かです。静謐であることに意味がある)
現代は情報が過剰にあふれている(※例えば印刷物もテレビもインターネットも汎在する)。私はこういう時代だからこそ「情報の削除」が効果的に寄与するんじゃないかと思うのです(もちろん反対意見の存在することはわかっています。仕方がない。状況によるのだ)。

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某君は「テレビをみてこうだったんだよね。◯◯だった。しかし実際は・・ だから現政権はおかしいんだよ!!」とのたまう。血圧をあげている。しかし。
それって政権がおかしいんじゃなくて「テレビ」がおかしいんじゃないの? 「テレビ」がミスリーディングを誘ってるんじゃないの? 「テレビ」が語ることが真実ってどうして思うの? 舞台裏に入ってみれば、制作者なんて私たちと同じ単なる個人なのに。そのテレビが語ることに万能性を認め、特権性を認め、従おうとする。
正直、テレビを見なければいいだけの話です。あなたはテレビを見るのをやめましょう(自宅でつけっぱなしにしておくのをやめましょう)。
※「テレビ」のいうことを無条件に入力してしまうのは、その直前の段階で empassive されているからです(入力状態への固定。言語には後の出力状態を導く enactive 要素と、相手を入力状態に固定する empassive 要素があり、その組合せとして存在している)。例えば疲れきって入力状態にあるから「偶然に触れたテレビが送信する情報を身体に入力してしまう」。会社や他所でたとえばやられてくるから「偶然に触れたテレビに身を委ねる」。
手法として逆なんじゃないかなあ。
それらの行為の連鎖として偶然性により強く身を任せることになる。世界を偶然性の機会の集成としてみる仏教の方が、偶然性の排除に効果的と思います。