都市生活者が田舎へと向かうことについて。「貯蓄切崩し生活」について。

ソロー『森の生活』の冒頭部分は衝撃だ。持参する食糧を事細かに書き出し、年間の必要経費をきちんと算出するのである。細目をみるとますます驚く。粗食も粗食。毎食コーンミールに毛の生えたような食事なのである。それを1年間やり遂げるソローも見事なのだが(※ソローは農業以外のスキルでこそ生活の糧を得られる人間であり森の生活は半分趣味であった)どうもこの記述スタイルはソローに限ったことではないらしい。
ゾラの『居酒屋』でも主人公の生活は経費の算出から始まるのだ。細かい単位でひとつずつ細目を挙げ予算内で何ができるのかをこちらがわかるように示している。雀の涙の演算である。西洋文学では(西洋文明では)生活者の現状を記載する際に数値を元に努力の度合と方向を示し、その枠の中で人間に何が可能かを例示する。
日本文学ではとことん感情的である。数値の出てきた試しはない。人間同士の感情のぶつかり合いや生まれ育ちや家族の縁やあるいは偶然に支配されてしまう(自転車で朝ぶつかったとか)。
こういう環境の中で育ってきた都市生活者が田舎へと向かうとどうなるだろう?
都市生活者は基本的に田舎住民を見下している。馬鹿だと思っている。自分ならもっとできると思ってるんだ。しかし田舎にあるのはひたすらな「貯蓄切崩し生活」である。最初に1年間の食糧と衣類を買い込まなくてはならない。農業するのなら肥料と燃料、ビニールハウス等の資材、採れた産物の梱包材(野菜を包んでるビニールとか輸送時の箱とか、全部農家が負担し梱包しているのですよ。朝5時台から)。それは物凄い量である。私の実家は1970年代前半まで食品と種籾としての米の保存に土蔵を1棟、梱包材としての段ボールとビニール袋の保存と作業場として(名称)長屋を一棟、田圃や畑に散布する肥料の備蓄に肥料小屋を一棟(サイドには汲取便所がある。状況によってはこれも肥料の生産に関与する)、たばこの加工と出荷用に乾燥小屋(下部から硫黄を燃やし内部で燻す)を一棟所有していた。全部現代の一戸建くらい大きいのだ。さらに豚小屋を一丁。これも複数の豚がいてアパートメントハウスくらい大きい。裏山には豚小屋から回収してきた敷藁(糞尿が染みついてる)を積み上げて発酵させ堆肥化するためのコンパートメントを一丁(もちろんこれも普通の八畳間くらいのサイズがある)。きのこ農家なので原木を浸水し生産可能にするタイプのプールサイズの水槽を一丁、きのこ生産のためのビニールハウスを複数(これらはマンションサイズである)。農用機械を格納するための農機具小屋をうんたらである。
それら必要となる面積だけで都市生活者の郊外住宅10軒分以上。
その面積のほとんどが収蔵と備蓄のためだけに使われるのだ!
6畳間に上から下まで段ボールとビニール袋が積み上げられた部屋を想像してほしい。
それを所有するのが農家なのだ。
12畳間にびっしりと10kg入りの肥料袋が隙間なく積み上げられた部屋を想像してほしい。
それを所有するのが農家なのだ。
台所の脇の土間にうず高くじゃがいもやさといもが積み上げられた部屋を想像してほしい。
それが農家なのだ。
もちろん台所の屋外には乾燥させて割るばかりの薪が年間使用する分だけ積み上げられている。もちろん自分らが自分ちの林からカットし除去してきた廃材をぶった切ったものである。

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田舎生活を行うとは最初からそれらを準備することだ(家屋除く)。もし無い場合、最初から購入するのである。
額として最初は最低2000万円クラスになるだろう。それをしても元が取れるとは限らないのだ。
皆さんの手元にやってきた美麗にパッケージされてる「◯◯産キャベツ」「新鮮採れたてピーマン」「原木きのこ」それらの基本的な洗浄、外見の整え、計量、見栄え良く映るパッケージングと封印は、ぜーんぶ農家がやっているのである(そういう意味で農家は工場である)。