イオニア学派は何故あのときあんな場所に現れたのか。ニーチェ「超人思想」の本体について。

不思議ですよね。そこから派生する流れが西欧の思考を作り上げてしまう。

では他の地域は? おそらく仏典は別の系統である。しかし世界を抽象化して考え捉えているところは類似だ。仏典的考察は日本にまで伝えられ我が国の底流となる思考を作り上げた。主観の抽象化である。主観の客観化である。「心頭滅却すれば火もまた涼し」は典型的なものだが、個体が所有する欲望や判断は絶対的なものではないという思考だ。欲望を客体としてみることである。

イオニア学派は世界の抽象化を志向したが主観の客観化はサブであった。ここ宗教が担うことになった。新プラトン主義やキリスト教の流れである。

キリスト教は西欧思想の本質的な流れのひとつと捉えられているが、ローマ支配を確立するまで他の宗教と競合する多くある宗教のひとつであった。支配に至ったのは偶然である。プラトンやあるいはエジプト発祥の動物を主神とする宗教の可能性もあったわけだ(キリスト教否定派のニーチェもこの点を指摘している)。他の宗教が主流となった場合ユダヤ教イスラム教もおそらく別のあり方であっただろう。地理的要因と歴史的偶然が分布やあり方を変えたわけだ。

その分布やあり方を客観化する判断(ニーチェ。彼はキリスト教を偶然のものとする)。

これが超人思想として個体の欲望の肯定あるいは否定につながる流れが面白くかつ不思議だ。

ニーチェは結局仏典の重要ポイントを吸収せざるを得なかった。日本で紹介される一般向けニーチェの解説書はほとんど仏典的歪曲による。もちろん第二次対戦前のドイツ的歪曲もおかしなものであるが、人々は自身の判断を強化するものとしてサブセットとしてそれらを流用せざるを得ないわけだ。

あらかじめ個人的な思想が所有されておりその補完でしか使われないわけである。

人格を変え別人になることは想定されていない。それが個人の思想の限界である。社会の中で個人としてその座標が定められているわけだ。

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仏教では人格を変え別人になることが想定されている。僧になるには出家が必要である。この時に従来からある名前も失われる。社会の中での座標が切り替わるのだ。西欧では洗礼名が付与されるが、仏教では出家者において名前の切替が行われる。

死亡者に与えられるのが戒名である。別の世界の住人になるわけだ。僧はそれを生の段階で行う。先ず世界の切替が行われ僧だけの集団(サンガ。「僧」の語源)に所属しその集団の理論に従う。

これは理論の正否を問わない。理論の客体化はない。否定はそれ以前の自身のあり方・価値判断に向けて行われる。過去の自分の否定である。

先ず過去の自分の否定である。そして新ルールの受容である。

※これは現在ではパワハラと呼ばれてしまう発想である。

ニーチェはこの前半部分のみを切り出して選択したというわけだ。

過去の自分の否定である。そこから先は想定されていない。

独自ルール・独自社会の存在は仮定されていないわけである。

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つまりそこから先は地理的歴史的偶然による。そう投げ出してしまう。しかしそれ以前の個体のあり方もその出生に基ずく地理的歴史的偶然にあるわけだ。そうなると個人の座標を変えるには地理的歴史的な移動を物理的に行わざるを得なくなる。「宗教」や「思想」では無理だからだ。

ニーチェ個人はスイスへの移住で解決した。

ニーチェの妹はアフリカへ新世界の建設に向かった。

物理的に座標を変えてしまう。ルールはその後に適用される。

※この項、傑作です。