原田宗典と文学の時代『黄色いドゥカと彼女の手』『時々、風と話す (STREET LIFE)』。眞子さまご婚約おめでとうございます!!

作家はUSOを書くのが生活である。
ドキュメンタリでもそうである。そこに人間を書くのであれば、起きて、飯を食って、寝る。基本的にその繰り返しである。なので作品の登場人物にはどこかデフォルメを加えなくてはならない。
このデフォルメが肝である。
文学ではデフォルメはデフォルメとして認識されるのだが、ラノベではデフォルメはキャラクターそのものとして認識されるのだ。ニャル子さんでもそのものとして認識されるのである(何かのメタファーというわけではない)。
で。
1980年代。
バイク雑誌が多数創刊され、売れていた。十数誌ほどもあった。
すごいことに全誌が内容が違っていたのだ!
友人宅にいくとバイク雑誌が揃ってる。というよりバイク乗りにおいてはそれらの雑誌は必須だったのだ。ニューマシンの紹介のみならず、メンテの手法とか、格安販売店とか、知人との連絡欄。ツーリング情報。利用者から寄せられた情報で構成される全国ねずみ取りマップもあった。要するに必需品だったのである。
バイクブーム=バイク雑誌ブームとも言える。
ただの機械の流通とは異なるカルチャー(文化)がそこには存在していたのだ。
この中で読者投稿とともに誌面を支えていたのがバイクの写真(ツーリングの写真)、および「バイク文学」であった。
不思議なことに。自転車、バイク、自動車雑誌を比較して、その中で「写真」や「文学」の比率を求めると、バイク雑誌が突出しているのである。
バイクは文学とともにあり、写真とともにある。
文学、写真の対象となり得るものがバイク(オートバイ、モーターサイクル)というわけだ。
原田宗典氏である。
氏は、ビジュアル系ツーリング雑誌『OUTRIDER(アウトライダー)』にて、センターフォールドショートショート、短篇文学部を負っていた。
これが実に読ませるのである。
バイク文学では、大藪春彦汚れた英雄』、片岡義男『彼のオートバイ、彼女の島』、佐々木譲『振り返れば地平線』等の有名どころがあるのだが(※いずれも名著)、それらに負けてないどころか、内容は日常生活なのに、ハッとし、記憶に残り、気付けば毎日読み返している。そういう文学であった(そういうものがない時代が現代という時代でありますよ)。
この原田宗典氏の小説の中に。
自由を奪われて自らの意志で結婚もできない
とらわれの姫君が出てくるのであります。
日光の御用邸で。あれは確かに紀宮清子内親王殿下であった。
◯黄色いドゥカと彼女の手 (角川文庫) 文庫 – 1991/9/25
原田 宗典 (著), 沢田 としき (イラスト)
https://www.amazon.co.jp/dp/4041762022
◯時々、風と話す (STREET LIFE) 単行本 – 1987/10
原田 宗典 (著), 沢田 としき (イラスト)
https://www.amazon.co.jp/dp/4886720331

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眞子さまが早々にご婚約を決められたのは、大変素晴らしく、めでたく、見事であったと思われます。
眞子さま本当におめでとうございます!
※私はこの、原田宗典氏の小説の中に描かれているとらわれの姫君である清子さまが、オートバイ雑誌に登場することから「またうまいこと書いちゃって」純粋にフィクションの中にあるものと思っていた。いいネタ仕込んで・・と思っていたのだ。
果たして。ご結婚相手の黒田慶樹さんは、2座のスポーツカー、ロータスエリーゼを愛用するクルマ馬鹿であった。
驚いた。そういうことであったのだ。

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こんなこと知って書いてるのってネット中でおれ一人。でも原田氏の短編は、当時は書店に平積みになり何万部も売れていた雑誌の中の名物コーナーで、氏自身相当に売れた作家であったのだ。氏に影響を受けた人々も多数いるのだ。
いまでは小説界はラノベ主流である。
それらは25年後に消えてしまう。それらの読者は25年後どういう見方をもって世の中に接するだろう。

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人間はみな未完成である。完成した状態で出会うことはあり得ない。不完全情報を所有した状態で、出会い、確認しあい、チームを作りあるいは別れる。誤解も多々あり失敗も少なからずある。そういった誤解や失敗はチーム運営の中では主題となることはないが物語(小説)の中ではそれらがメインとなる。
そういったタイプの「小説」は20世紀までのそれなのだ。
現代では世界はゲームの拡大版として解釈され、誰もがゴールを目指し、完成するパズルのピースを集めようとする。小説もそのような作風となる。
それらはラノベと呼ばれる。そこではピースを集められないキャラはモブとされ中途で退場していく。
かつての小説とは反対の制作手法がとられている。


それらは大衆を救うものとなり得るのだろうか?
かつてはコミック『栄光なき天才たち』(集英社)の中ですら、F1ドライバー アイルトン・セナが勝利を重ねるその背後で自身の家族形成に失敗し、悲しみを背負い、しかしドライビング以外の道を選ぶことはできず仕事をする以外の経路は閉ざされていることが明白に記されていたのに。