人格チェンジの苦しみ(それは死の苦しみに近い)。ピート・ハミルとC.W.ニコルさんについて。ジャック・ヒギンズの忘れられた小説について。

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来年には広く一般公開。頑張りましょう自分。
で、新たな作業に入るわけです。
人格の交換が難しい。対象として扱う領域が広いのです。作業内容が変わるのでデスクトップに存在するこれまでの環境を一掃しなくてはならない。そして新たな環境をビルドアップ。視界に写るものたちを対象とするものだけに絞らなくてはならない。
心を入れ替える。これが大変なことなのだ。
2日から3日、ひたすらに眠り続ける。頭を抱え、遮音して。その間馬鹿になる。周囲に反応できなくなる。そんな状態がケースによっては1週間ほど続く。喋ることも無内容でほんとだめ人間になるのだ。
だめ人間を続けるうち体内が変化し、次第に「それ」を扱えるようになる。身体が自動的に動くようになる。
その変化は意図的にできない。即時の入れ替えは無理なのだ。
ここが本当につらいところです。
デスクトップを洗うように心を洗う。その手間の多さ!!
※だがこれこそ吾輩の秘術でもある。多くの人々も無意識にそれをしている。それはかつて文化として認められていたものでもある。
作家としてこのことを明確に記述した人々にピート・ハミルC.W.ニコルがいます(私の知っている範囲ですが)。
どちらも80年代を中心に活躍した戦後生まれの作家だ。彼らは、ヒーローたちが何故それをするか(何故その能力を獲得したか)について、その過程を描く。
ピート・ハミルについてはちょっと書いたのでニコルさんについて述べてみます。
彼は、学校で阻害された少年でしたが、偶然に触れた日本の文化(柔道)に救われ、その後恩師について極地探検等繰り返しながら、イヌイットや日本の捕鯨文化を記述するために著述に向かうために孤独な環境に入り、死を意識した。
それまで書こうと思って書けなかった。「作品を完成できなかったとき、自分は死ぬべきだ」と確信し、集めた資料を手元に置き身辺を整理しながら、純粋に書く作業に突入するのです。
大酒飲みで、暴れん坊で、いたずら大好きで街の暮らしを愛しているのに、それを全部捨てる覚悟をしてしまう。
身体が自動的に動き出すまで。作家としての身体を獲得するまで。
※この辺は日本の作家、例えば坂口安吾等と比較すると全然違うのに驚く。安吾は「一枚いくらか、。その分書けばいいな。よし書くぞ」と原稿のペラを紙幣のようにカウントして書いていく。日本の多くの流行作家がそれである。『木枯らし紋次郎』を書いた笹沢佐保は、眠る間も惜しむために立ち続けた状態でペンを走らせている。そのことを自身の履歴として残している。
海外の作家では何故か違う。彼らは作家になることと原稿に文字を埋め込む作業とを独立したものとして捉えている。
冒険小説の大家であるジャック・ヒギンズもそうなのだ。彼も『ダンスホール・ロミオの回想』という作家として独り立ちするまでの姿を私小説として書いている(驚くことにWikipediaではこの本の記述が欠落している。Wikipediaがミーハーの記述によって支えられている証拠である)。
ダンスホール・ロミオの回想
ジャックヒギンズ
https://www.amazon.co.jp/dp/4152077131
1949年英国。作家志望の若者オリヴァー・ショーは、除隊して故郷の田舎町へ帰ってきた。戦後社会からとり残され、前の保険会社の勤めには乗り気がしないオリヴァーは、女たちと寝ることに憧れと情熱を傾ける。年上の友人ジェイクに助言をあおぎながら、地元のダンスホールで出会う女たちに夢と快楽を追い求めるうち、別れや失敗を経てオリヴァーもじょじょに成長していく。学校教師の職を見つけ、すさんだ少年たちに手こずりつつ、同僚の女教師と大胆な情事を楽しんだり、人妻とつかのまの恋をしたり…。やがて、ヘミングウェイを目標としていた彼に作家としての転機が訪れる。英国冒険小説の巨匠が、ノスタルジックに、そして、時にポルノグラフィックに描き上げる自伝的青春小説。