満員電車の地獄。横になれる空間の貴重さについて。

今回の発症に関して。
とりあえず満員電車がひとつの原因であったことは間違いない。無理な体勢が続き、関節の負担が増えた。その結果痛みは限界に達した。
満員電車は休むことができない。
横になれず、眠れず、身体の緊張を解けない。それが毎日の始まりと終わりにある。それぞれ2時間弱(一般的な首都圏の生活環境において)。しかも家を出たなら滅多に大地に伏せられない。理想的に、立派にみえる外見を維持しなくてはならない。
これは超健康的な人間でなくては無理です。
貧血が多かったらどうなるでしょう? 易疲労性の、定期的に体を休めざるを得ない人間にとっては? 骨格や関節の負担を減らすために数時間おきに休憩の姿勢をとらなくてはならない個人においては? 偶然自分は全部当てはまる。しかし十数分間ずつ細かく「寝る」姿勢をとるだけで回復するのだ
横になれる電車があれば全部解決する。
あるいは都会で横になれる空間があれば。最近の都内のベンチの横になれない仕様、あれは最低だ。
どうして人間を横にしないで詰め込むことに自治体まで熱中しているのか?
※見栄えだけだ。ホームレスと同じにみえるからだ。しかし横になる人間にはきちんと理由はある。彼らは回復をはかっているのだ。
しかし1980年代後半の「リゲイン」の広告あたりから回復の重要性は認識されなくなり、カフェインで24時間働かせ、どこでも立ちっぱなしでテレビタレントのような姿勢を維持するのが普通になった。
このブログでも書いていますが。
かつての大衆食堂では行きつけの人間は飯時にごろりと横になれた。畳敷きの空間はそれを許容した。食堂は居間のように休憩をも提供し得る場所だった。味は二の次でよかった。私はそれを正しいものだと思っている。
スーパー銭湯という形式もそうだった。風呂に入って横になる、そういう場所であった。
それらは消えた。何が残ってるんだ。マスコミが持ち上げる、ぎちぎちに人間を詰め込む形式の飯屋だけだ。横になれる空間は、それが人類の福祉に貢献し生産性の増大にも寄与し得るものであるにもかかわらず、サイレントであるがゆえに21世紀の都内からほぼ完全に消えてしまった。


※当方『ルパン三世 カリオストロの城』を引用して書いてしまうのはそれです。主人公のルパン三世は駆け出しのときも、そして十数年後も、怪我をして倒れて横になる。その横になれる空間が映画の舞台となる(ヒロインが居る、あるいは仲間と語らう空間は、その横になれる空間である)。
1980年までの時代では休憩と回復が物語の主題となっていた。
現在はそういった休憩と回復を主題とするものはない。物語の主題が能力バトルであるからだ(コミック中で「能力」と定義される超能力はおおむね休憩等不要で発動できる。主人公たちは、眠る必要も横になる必要もなく、編集済みの映像のようにフルパワーの状態を24時間キープしている)。
登場人物は人間であることを止め、より架空の存在となってしまった。