こう書くのはあれだけど(他者の行為を叩くようにとらえられちゃうけど)。バイク関係のブログ・動画は全部厨。残らず厨。大変なことです。自分もその範疇に入ってしまうのだろうか。2サイクルオフロードバイクに乗ることは恥ずかしいかもしれないことについて。

仙台では。
人間がバイク(自動二輪車)に乗ることはおかしなことではなかったのです。
むしろ奨励されていました。入学式シーズンでは、東北大学ではキャンパスに早坂サイクルが出店をだし、原付の展示販売を行っていた。かつてのことだから8割がMT車です。学生にとってはまったく普通だった。大学が山にあり、バスの終了時刻も早く、バイトにも買出しにもその後の帰宅にも公共交通機関は使い物にならないため、学生は積極的にバイクに乗った。街中は大学生のバイクにあふれていた。バイクに乗ることは、金のない貧乏学生にとって当たり前の行為であったのです(仙台市民にもそのように認識されていた。爆音を奏でて二輪車がやってきても「ああ学生さんがきたな」という感じでした)。
首都圏では違った。1992年。それと同様の感覚で二輪車を手にしたとき。東京の街中ではまったく異なる扱いを受けるのに衝撃を受けた。塾で授業を行っていたのですが。バイクを買っちゃった話をした後、隣で指導していたねーちゃんが「バイク買ったんだって」「要らないよね」「死んじゃえばいいのにね」そんな話をしていたのです。私は自分の指導を中断し、そちら側に異論を唱えにいかなくてはならなかった(そういう話をする奴もする奴だと思う。この手合は誰かにそれを指摘されるまで他者への攻撃を無意識に行う。なのでいちいち私がその事実を指摘するという損な役割を負わなくてはならないのだが・・←私、いいひとですよね、まったく。本来は親や上司の指導でしょう)。それはともかくとして。
いちど街に出てみると。そこには(現代で言う所の)厨房しかいなかったのです。
夜に乗るには便利だった。確かに第三京浜とか走って横浜等に向かうには異様に速くて気持ちよかったのですが。昼に乗るのはめちゃくちゃ辛かったなあ。年中右側から無理抜きされる(渋滞ぎみでゆっくり走行しているときにですよ? 普段に流しているときにはそうはならない)。高速を100km/hで走っていてもやられる(2サイクル並列2気筒なので次の瞬間私も即抜きしちゃいますが)。通勤時間帯はドカズボンはいた肉体労働者系の皆様がむちゃくちゃな走りで現場へと向かう。交通機関同士の争いだ。二輪車はその中でも弱者である。目障りと排除される。都内ではバイクはそういう扱いだったのです。
衝撃でしたね。格差社会とでもいうのでしょうか? 加えて言えば都内から田舎や観光地に向かうのに要する手間にも驚いた。一般道では片道2時間はかかる。妙に信号にひっかかる。車も多い。事故も多い。嫌になるのは夕暮れ時の渋滞だ。箱根や富士山や日光から都内に向かう道は週末は常にぎちぎちに詰まっており(四輪車であれば)片道3時間はかかるというのが普通だったからです(※この様子をみて私は次の世代では自動車は売れなくなると確信した。都内の住民は自動車を保有し、あるいは乗車する必要はないのだ。まったく自分でも言うことはころころ変わりますが。あの無意味な渋滞を振り返るとそう結論せざるを得ない。ガソリンは全部無駄である。バブル末期の当時は、毎週末、現在の盆暮れ渋滞が各所で繰り広げられていたのである)。
その後バイクで何度も都内へと向かうケースがあったのですが。
いろいろと思い知りましたね。そういう環境の中で乗るものではない。自分自身が誤解される。バイクは山の中でこっそり乗るものだ。個人が自由に使える時空間の中でこそ開放してあげるべきだ。栃木でもバイクに乗ることは普通であった。ツインリンクもてぎもあるのだ。二輪車は特異な趣味というわけではない。ひとは日常的に二輪車を転がす。ところがそれが首都圏近郊となると、とたんに厨くさくなってしまうのである。
あれはどうしてなのだろう?
本当に自分でもわけがわからなくなってしまう。
自分の判断ではない。他者から判断されてしまうのだ。その環境の中に放り込まれたなら、自動的にそのクラスにランクされてしまうのである。とくにあなた、古くさい20年前の、白い排気ガスばんばん出す2サイクルオフロードバイクとなったら周囲からの浮き具合は並大抵じゃないですね。つつましやかにスクーターに乗っているのなら違和感ないのかもしれないのですよ。
※現在所有のKDX125はもともと栃木県と北海道のみとを走るためにこそ入手した。住宅地を走行することを想定していなかったものです。新規に二輪車を購入する意図を持たなかったので現在地までそれを持ち込んできたのだが、これはもう・・浮きますね。メーカーがラインナップにオフロードバイクを揃えたくないのもわかります。地方限定だわ。それも日本でなく世界の。南米やアフリカならストロークの長いオフロードバイクも見事に現地に溶け込んでしまうと思われちゃうのですよ。
※というか私も東京の大学に進学していたなら「へ?バイク?なにそれ?」と判断していたかもしれない。これは大変なことだ。都内の環境で生活するとはそういうことなのである。積極的に田舎へと向かう行為も都内では意味のないものである(毎回の渋滞)。都内は文化を都内自身で完結させる方向へと向かわざるを得ない。その結果としてのおたく文化なのである。
※要するにひとは田舎(田園都市)に住むことでアウトドアカルチャーに触れるのだ。住環境が先行するのである。アウトドアカルチャーの維持には都市自体の田園都市化が不可欠である。都市の設計から変えていかなくてはならない。でも難しいんだろうなあ。最近は米国でもアウトドアしないみたいです(レーストラック高橋社長の話。NZでも米国からの旅行者から聞きました)。屋内文化にシフトしてるみたいなんですよ。だから元には戻らないかもしれないですね。田舎はますます魅力的でなくなる(田舎という環境に住んで、二輪車を乗り回して自然に触れて・・というカルチャーが、その他の環境に居住するものたちから無意味な行為と知覚される。清少納言が田植えを人間の後退行為としか認識しなかったように。都市はさらに都市の中のみで完結し、都市カルチャーこそを売りにしていく。田舎に都市文化こそを押付ける存在となっていく)。これは大変なことですね。田舎は今後なにを売りにしたらいいのでしょう。
※個人の成長した住環境こそがその後の10年〜50年先までの文化を決定するので、これはもう言葉ではないです。テキストがどう記述しようとも、ひとが詰まったボックス状の建物が国道16号以内を(そしてすべての地方都市を)埋め尽くしている現状では屋外文化を維持しようがない。ひとはテキストに駆動されるわけではない(※学校教育はテキストによる駆動があると考えています。私はそうではなく視覚系による優先があると判断しています)。文章以外に毎日通う、通勤・通学時の光景こそひとに影響を与えるのだ。なんというか、景色を健康にしないとだめだと思うんですよ。テキスト側から意識的に改革するのではなく。美しいものをみて美しい気分になる。それがいいではありませんか←ニーチェの言ってることもこういうことです。テキストで無理やり変えるのではないのですよ。