EPO「雨のめぐり逢い」。3rd album『う・わ・さ・に・な・り・た・い』1982.5.21発売収録。

EPOを最初に聴いたときは驚きだった。18歳だった。一気にやられた。魂をうばわれてしまった。
そのときまで自分も女性歌手を聴いていた。松田聖子河合奈保子石野真子、榊原郁恵。キャンディーズピンクレディーももちろん。その手の歌はメディアからあふれてきていた。テレビをつければ聴ける。ラジオをかければ聴こえてくる。歌謡曲はブームの直中だったのだ。
ところが私がはじめて積極的に購入したエロ本である(中央にセンターフォールドとしてHAKUJINのお姉さんのヌードが載ってましたよね)集英社の『月刊PLAYBOY』では、最近一押しの歌手がEPOであるという。
パソコン雑誌(マイコン雑誌)やアニメ雑誌しか読んだことのない私です。
まっさらな状態で全然分からないまま貸しレコード屋にいって借りてきたわけだ。
最初の衝撃。こんな歌があるのかと思った。
おしゃれであった。うまかった。アレンジも最高であり大人の世界であった。いや、年齢はそんなに違わないはずなんだ(←10歳も離れてない程度という意味ですよ)。でもマイコンやアニメの世界とは全く違いますよね。JUDOとも自転車とも違う。
謡曲や演歌とももちろん違う。それらは誰かに媚びている。EPOは媚びてない。最初からこう歌う「あなたは私をいつでも I love you. 私はあなたをいまでも I like you.」。
この曲「Girl in me」を聴いたとき、『宇宙戦士バルディオス』の最終回をいきなり見たような衝撃だった(全編見通したような衝撃だった)。『伝説巨神イデオン』の最終回をいきなり見たような衝撃だった。要するにこの瞬間、おたく的な概念はなくなった。それらは洗い流されてしまった。女とのつきあいはなかった。自分をしたってくれた女の子はいないではなかったが、そんなのより(そんなつきあいより)素で脳をこじあけられ何かを刷り込まれたような気がしたのだ。
この曲「雨のめぐり逢い」はそのときつきあってた(?)女の子のことを思わせる。
19だった。なんで彼女に何かをしてあげられなかったのだろう。
彼女は短大を卒業するときに連絡をくれたのだ。自分は今日のたったいままでそのとき電話があったことなど忘れていた。

これは大飢饉ペース『日照時間 半世紀で最少 東京・仙台』17日 12:52。tenki.jp。

食料品価格高騰、離農者続出。これは大飢饉ペースです。

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日照時間 半世紀で最少 東京・仙台
17日 12:52

https://www.google.co.jp/amp/www.tenki.jp/amp/forecaster/diary/deskpart/2017/08/17/79241.html

2017年の8月1日から16日の日照時間を合計すると、東京都心は32.6時間、仙台市は12.2時間、岩手県宮古市は23.8時間。いずれも、例年より大幅に少なく、資料の整備されている1961年以降では最も少なくなりました。

このほか、山梨県甲府市でも59時間で2番目に少なくなるなど、関東甲信から北の太平洋側では記録的に少ない日照時間になっています。農作物の管理など、十分な注意が必要です。

とんでもない連想ゲーム。今年は冷夏 ⇒ 仙台の夏は寒かった ⇒ 昔の生活の回想へ。寒いっていっても今年の夏やばすぎ。

なんで昔話なんて書いてるのかと思ったら。
どうやら昨日「ええ!?仙台26日間連続雨なの!?8月の日照時間て20時間あるかないかなの!?」と検索してみて驚いたことが理由にあるみたいです。なんかやませの吹く仙台みたいなんですよこの関東の様子。湿度が高く、晴れ間がなく、夏が来たのかわからない。
寒いっていっても仙台の寒い夏はまじやばい。
普段から関東より5℃くらい気温は低い。7月でもジャンパーが要る。これは仙台に最初に越してきて驚いた。7月でもTシャツではいられないのです。
さらにこたつにびっくり。7月でもこたつをつける。「何いってんだこいつ・・」と関東地方人は思うでしょうが、まじである。こたつがなかったら夕方から夜にかけてどうするのか?
そして本格的に寒いときはストーブを焚くのです。
ここはまあ仙台だからそんな感じで済む。
北海道の釧路なんかはまじでやばい。7〜8月でも最高気温が15℃だ。それが普通である。高校生たちは厳重に上着を着て登校する。釧路の学校の夏休み期間は15日程度しかない。
その代わり冬休みが1ヶ月半続く。
釧路の友人宅に泊まり込んだ。毎朝ストーブを焚く。朝に火を点け、夕方帰宅後は直ぐ点ける。それは7月8月でも続く。
その釧路では農作物が獲れないので野菜は各地からの輸入に頼っている。キャベツなど関東地方の3倍の価格なのだ!
この秋、どうなるのか。
※※言いたいことはわかりますね。中部以西が儲かるということです。日本が細長くてよかった。しかしまあお米はやばいと思います。「まじでやばい」これは本当です。

たがわ靖之『包丁無宿』。この成長の要素が原作超えを可能とした。すさまじく面白い。現代の少年マンガは全員脱帽すべき。

現代の少年マンガってどうしてあれなんでしょう(巨乳要素を足せば売れると思っている。おかしい。マンガを読むことがその場だけの快楽で終わってしまっている)。
たがわ靖之『包丁無宿』です。
なんの気なしにみたページでこれだ。主人公暮流介は自分の技が通用しないことに衝撃を受ける。それまで各所で無敵を誇ってきたのだ。追われる身であり、敵の放つ刺客と勝負を重ねながら、自身の修行で得た経験がその身を守ってきた。
それが通用しないことを知らされる。暮流介は脱皮し、これまで以上の存在にならねばならない。
この成長の要素によって『包丁無宿』は原作である米テレビドラマ『逃亡者』超えを果たすのだ。
そしてこの声は、主人公である暮に投げられた言葉であるにもかかわらず、読者に投与された声でもある。
読者はこの声で、応援されるのだ。コイン数枚で購入され、読み捨てられる一介の雑誌であるにもかかわらず、読者は貴重な経験を得る。このドラマの視聴により人生の転機を得るのである。

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いやー。巨乳で媚び媚びのねーちゃん(あるいはロリで媚び媚びのねーちゃん)出してりゃいいって作品だらけなのはまずいでしょう。
もちろん部分的にそういうのは大ありです。
だがこのカットのように衝撃的な一言が得られるだろうか。この一言は主人公暮にその後の技術の根本的転回を促すが、読者においても根本的な思考の変革を促す。
他所様に評価されるには旬のものを旬のまま出すのでは不足だ。味ならもちろん旬のものを旬のまま出す方がいい。しかしそこには感動はない(感動は不足している)。
感動を提供することによりお金を払ってまでその経験を得たということが貴重なものとして認識される。
味なら旬だ。自分で食うならそれだ。しかしそれでは提供するものとしてはだめなのだ。ではどういうものを探してくればいいのか?
※以上の発想は現代人に根本的に欠けているものでもあります。現代人は旬のものを旬のまま味わうことで満足している。それを良いと思っている。この発想の稚拙さが海外(米国)との格差の拡大につながった。昔の日本で存在した思考が失われた結果こうなってしまったのだ。

弟子のひとりにやばい事態が発生か。1週間前に驚きの事実を耳にする。

「◯◯さん、知ってますか。Kちゃん入院したらしいこと・・」
ええっ、初耳。ていうかあいつどこもおかしい様子みえなかったじゃん!!
「でも、最近きてないっすよね? 見かけないっすよね? いや、自分もこのスタイルで参加したの2年ぶりくらいなんですけど。Kちゃん見当たらないってのは、つまりはそういうことかと」
まじかよおい!!
いや見るからに敵をつくりそうな気配ではあった。標的にされてしまう、そういうおそれがあった。
あまりに普通な人間なのだ。
刺激的な部分はなにもない。刺すような部分はないのだ。しかしだからこそ世の中からは疑われる。世間は、出る杭を叩くのではなく出ない杭を叩く。伸びる前にその芽を摘んでしまう。表裏のない普通の人間は、テレビばかりみてるテレビっ子たち(メディア一世)からは、どこかおかしい人間にみられるのだ。
自分からみれば世の中は逆である。
普通の人間がテレビアイドルやテレビタレントみたいに滞りなく立て板に水のようにしゃべれるわけないだろう、シナリオないんだから。ライターが裏書してるんじゃないんだから。編集してるわけじゃないんだから。新たなアクションとるときにはきょどるのが普通だろう。何をするにしても失敗重ねながら成長していくしかないだろう。
なのに人々は一般人のそういう様子をみて叩く。
そして台本を読んで行動している人間を賞賛し、その通りにひとは動くと思っているのだ(中身のない上っ面な言葉だけを発する人間を信じるのだ。それこそ、人々ののど裏をくすぐるように仕掛けられた言葉なのに。そののど裏をくすぐる言葉だけを人々は発すると思っているのだ)。

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テレビの普及は、24時間それらが垂れ流しになってるということは、あまりに異常な事態です。
社会がメディアで飽和する以前には、人間にはそれぞれ各個の事情があると知られていた。人間は都合よく動くものではないと理解されていた。人間に触れるとはそういうことなのだ。常に半数が意図の失敗を覚える。
しかしメディア上の人間はそういうものではない。常にアクセスのとおりに動くのだ。意図の失敗はない。この視聴を重ねることにより人間は他の人間への配慮の精神を失ってしまう。人間は意図のとおりに動くと信じてしまう。幼児期からこういう体験を積み重ねることにより彼らは人間をある種の模型の一種と認識する。メディア一世の完成である。
現代ではメディア一世二世ばかりの世界だ。人間よりメディアを視聴してきた人間ばかりが闊歩する世の中だ。彼らは人間をメディアを通してのみ学び、メディア上と同じ姿をしていない人間を見かけては「これは本当の人間ではない」と叩くのだ。
本当に愚かしい。

彼ら自身もメディア上の人間とは異なる特徴をもっているのに(彼らは自分は棚上げです。ああ恥ずかしい。恥ずかしい)。
キリスト教徒やイスラム教徒も同じです。彼らは人間を彼ら自身の所有する聖典を通して判断し、その基準に合致しないものを見かけると叩く。そしてこれは宗教だけの話ではない。
教育の場において、あるいは家庭で、常に同様の行為が行われている。
愚かな。なぜ自分が教導してみようと思わないのか。なぜ自分も一緒に動いてみようと思わないのか。

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大人が子供を叩くのもおなじです!
第一回目の体験でなんでもうまくいくわけ、ないでしょう。経験の量が違うんだから。世の中に出てまだ時間が短いのだから。言葉を獲得してからさらに短い、文字を書けてからの期間はさらに短い、本を読んでる期間はさらに短い。
でもその体験の量に起因する差だけで、大人は子供を見下しますよね?
新たな取組をするときには、これから一斉にスタートするときには、2倍も3倍も差をつけられてしまうのに。
自分らの得意なフィールドで自分たちと同じ体験をさせて、最初の一歩めでつまづくと、大喜びして自分の大きさを示し子供たちを叩く。
ばかじゃねえのかと思う。
そんな大人たちばっかりです。あきれるわ。