ダイソーの100円ブロック『PETIT BLOCK』の品質に驚愕する。はたらくくるま♯5 ブルドーザー。これで100円!?

まじで素晴らしすぎ!!!
このシリーズ、コンプリートしたくなりました。知育玩具として超優秀。ブロック系は全部優れていますが、PETIT BLOCK は100円ですよ? それで部屋に飾れちゃう。サイズ感もすごくいい。「ねんどろいど」なみにいいのです。

神奈川県に乗り込む。荷物満載。

CAD用に調整した EeePC は現場に全機持ち込んじゃってよかったですね。なんで手元に残しておいたんだろ。不思議だ。
このEeePCが曲者である。
どうも、/dev/ttyUSB0 が正常に動作しないのだ。
これが「ただ繋がらない」のではなく「異常動作を引き起こす」のが問題である。これの支配下に置かれたArduino(Firmata)は、よくわからない理由で壊れてしまう(動作が不安定になってしまう)のだ。これはもしかするとシステム自体にパワーが不足してるからかもしれない。極めて遅いCPU。重い動作をさせると何が起きるのかわからない。
つまりロボットの部品として不適である可能性がある。
多分、C2D以降のCPUパワーは不可欠である。こうなりゃとっとと子供用CADマシンに変えてしまっていいのだった。

教室の構造とその逆の「非教室型」運営について。

いろいろ考えて現地みてその末の結論なんですが。
通常の舞台化された教室、あるいは劇場に範を得た階段教室、コンサート様の円形教室、こういうのの余所余所しさって、なんなんですかね?
主役は役者にある。教育の場では教師だ。教師は気持ちよく授業できる。聴衆は支配下にあるからだ。ここでは、観客(生徒)の視線は全てが俳優(教師)に向けられており、生徒は隣合う生徒どうしのコミュニケーションより、教師とのコミュニケーションを行うものとして規定されている。
まあそれはそれでいいでしょう。
問題は、そのようなコミュニケーション形態が正常なものとされ、子供たちの生涯で過半数の時間がその形態で進められることだ。1日数時間ならいい。しかし全部がそうなるとしたら、おかしいのではないだろうか?
私は実は「教師不要論者」である。少なくとも「支配」の感覚は過剰には不要と考察している。
自主性が重要と考えている。舞台に登るべきは教師より生徒ではないだろうか?
生徒が、互いに範を示し、互いの姿勢を見せ合うことで教室が自律的に運営されていくなら、それはパフォーマンスとして最高である。
ミシェル・フーコーが引用したベンサムの設計によるパノプティコン。これは18世紀の設計とされているが、全く同様の円形集合住宅を客家はとうの昔から建築している。中央に広間があり、ドアを開ければ対面に位置する部屋同士、何をしているのか丸見えなのだ。これはパノプティコンの構造と同様である。しかし中央に監視塔は存在していない。監視者は不要なのだ。客家の家屋は自律的に稼働し、それは人々のもつ視界の広さが「見られ、判断される」という監獄システムの仮定を上回る効率を持っていることを示している。
西欧では監獄として設計されたものが、東洋では民家となっている。
このパノプティコン型構造には、例えば西欧のそれでは、監視者は仮定されているが俳優・教師は仮定されていない。特権的な情報提供者は存在しないのである。

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パノプティコンと伝統的客家族の家屋との比較は非常に大きな意味を持つ。客家族は我々とは異なる何らかの価値基準を持っているとみてよい。